SAKURAの自己紹介

高校まで居た関西から東京に移住

SAKURAは関西生まれです。それで幼少の頃は阪神間の関西弁使いでした。それが普通だと思っていました。

18歳になった頃から長年東京、首都圏で暮らしていたので日本語については関西弁と東京言葉のバイリンガルですが、同じような人はいっぱいいるのでこんなのは何の自慢にもなりません。

生まれてからずっと住んでいた地域は下町で、小学校はともかくも、中学が荒れていたために親が無理してでも私立の女子中高に進学させることに決めたので中学入試を体験しました。自慢じゃないのですがどういう訳か入試成績が一番だったようで、入学式に新入生総代として挨拶文を読まされることになり、こんなことは全く不向きな親たちを巻き込んで毛筆で書いてもらった巻紙を読んでいただけ、という記憶があります。

入学後は6年間一貫教育の学校で高校入試が無いのを幸いに中学から高1まではほとんど勉強せず怠けて暮らしていました。女子校というところは女子ばかりなので逆に振る舞いがバンカラになるケースも多いんですが、その一員として授業中にサボって内職をするとかおおっぴらな私語とかを大いに楽しんでました。
勉強は定期試験直前しかしなかったのですが、この様に一般的に勉強してないので今でも物理化学・数学系は苦手、というかよくわかりません・・・・・。

高校2年の時このまま行くと付属の短大ぐらいしか受け入れ先は無いものと気づき、そろそろミッション系女子校の雰囲気にも飽き飽きしていたので入試科目の英国世界史3点セットのみの猛勉を開始して無謀な挑戦と思った憧れの大学に合格、大学のネームバリューをもって親を説き伏せ関西から上京しました。

なんで関東(=東京)に行くの?と当時仲良しだったクラスメート達に言われました。昔は今より関東関西の差が強くて、まるで別天地、外国みたいに思われていたようです。私としてはそれまで6年も過ごした女子校の雰囲気から逃れたかったし、とにかく新しい世界が見たかったんですね。

悲しき劣等生の学生時代

4月の入学当時は司法試験に向けて頑張るはずでしたが、たった3ヶ月でマス授業とほぼやる気の無い教授、面白くもない法律書の解読に失望して学業には挫折してしまいました。思えばおしゃれや遊びが大好きな若い女の子に法律の勉強なんて無理でした。これが10年遅かったらまた違っていたかも知れませんね・・・。
代わりに法律とは全く縁のないクラブ活動の部室に入りびたり、週に1回は酒盛り、そして生活費補助のバイトに明け暮れていました。日本の文系の大学は昔からそうですが入ったら最後出るのは簡単、そして我が法学部は卒業論文が無いこともあって出席を取る語学の科目が無い3年以降には学部のある建物にはほとんど足を踏み入れなくなってました。

当然成績は振るわず、おまけに1年余分に学生時代を過ごしてしまったのでやがて迎えた就職戦線では失敗続き。3ヶ月以上に渡る就職活動の後やっとのことで入社が決まったのは零細ソフトウエアハウス、なんとか就職できた仕事が『将来性抜群』のIT技術者見習い(当時はITなどという言葉は無く、プログラマー・SE見習いと言っていました)でした。需要は恒久的にあるので将来性がある仕事として入社時は結構やる気があったんです。

浮き沈みたっぷりの東京の会社員生活

この就職がまたミスマッチでした。『IT技術者の卵』、こう言えば聞こえはいいのですが実態は長時間労働+休日不定なブラックな職場でした。当時からこの業界は休み無きタコ部屋労働を日常的に行う会社が非常に多く、ここも例外ではありませんでした。
このままでは青春を楽しむこともできないと思い悩み、それに初心者同然の人間がいきなりアセンブリ言語とかやらされ、納期納期と言われて精神病んで病気になりかけました。
半年経った頃もう限界で、内緒で応募した次の会社に採用されたので強引に退職、しかし今のように退職代行してくれるサービスの存在も無く、退職時は針のむしろでした。

しかし転職先がまたハズレ、詳しいことを書いても仕方がないですが数人で運営している極零細出版社で独裁上層部に嫌われることになり、1年も経たず追い出されるように退職。やはり十分な転職活動をしなかったせいだと思います。

それから実に半年以上になる失業・求職期間でした。ちょぼちょぼのアルバイトと少ない失業手当で食いつなぎ、秋から冬の季節で寒さもあって、なんとも心が折れる時期でありました。

しかし春が来た頃、求人雑誌(当時はもちろんネットなどありません)を見て応募した一部上場会社の子会社にやっと就職できました。 ここでは待遇等は親会社とほぼ同じで結構恵まれていたので、家賃と食費でギリギリの生活の中で拾われた幸運、と思いきや、なんと営業の第一線に放り込まれました。ミッションは米国製オフィス用コンピュータを企業相手に売り込む仕事。わたしは試験的採用人員だったのです。なるほど先立って女性活用をする企業が注目される時代でもありました。

今思うと期待されていたのだろうとは思いますが、これもまたまたミスマッチでした・・・。良かったのは外勤が多く、今のようにGPS管理もされないので結構自由な時間を享受していました。営業に運転免許は必須、と自己納得して自由な時間を駆使しやっと運転免許を取ったのもこの時期でした。
20代半ばの女の子には企業相手のシステムとコンピュータはちょっと売れませんでしたが、ここで営業トークや電話、外回りのマナーを身につけることが出来たのは後々の栄養になりました。

こんな美味しいメリットもあったのですが、紅一点の売れない営業、クビになったら・・・と考え悩みながら過ごす日々でした。そんな日々を送って2年、景気だけはいい時代だったのである日突然辞令が出、社内異動で内勤になって救われました。

当時は年功序列がまだ生きていた時代だったので毎年順調に昇給、一応広報関係の部署でしたが担当している業務も何年も経ってマンネリ化していたのにもかかわらずボーナスも満足のいく額になっていきました。
で、のんびり会社員ライフを謳歌しながらそのまま数年が過ぎ、給料も在職年数が長くなるにつれて上昇、最終的には年収600万円以上もらって『会社員貴族』に近い暮らしを1Kのエアコンも付けてない部屋で満喫していました。

しかしまた落ち込みの日々が来ました。異動で新しい上司が来てから最悪になりました。この上司は数年前1年だけ仕えたことがあるのですが2度目に再会すると以前にもまして自分に寛大で他人にウルサイ最低のタイプの上役になっていたのでした。これはおそらくバブル時代の産物でもあったのでしょうか。楽々と有利な位置に居座る、当時は景気最高でそれが可能でした。そういえば同僚が自分のアイデアがこの上司に盗まれたと怒っていた事件もありました。とにかくパワハラづくめの数年間が始まったのです。

あまりの酷さに会社を辞めたくて仕方がなかったのですが、一人暮らしで生活のこともあり、ぱっと辞められないので気晴らしに嫌いな英語ではなくスペイン語を勉強していました。会社は英語が出来て英会話が堪能な人を優遇していたのでそんな風潮に反発したこともあります。
お給料は上に書いたように良かったので、半年ほど基本文法などをNHKのTV番組で自習した後、1時間数千円の個人レッスンを受けに週1回は恵比寿のスペイン語学校に通っていました。先生は中南米のネイティブがほとんどでしたが、皆さん親切で日本が長いせいか日本語も堪能な人も居て嫌な昼間の出来事を忘れるのにも最高でした。そして1人で住んでいたのでビデオや学習テープを帰宅後気兼ねなく視聴するのもOK、とにかく自宅ではスペイン語漬けに近い生活をしていました。

実はSAKURAは英語は不思議と中学時代から勉強はしなくてもそこそこの点は取れていました。それもあって大学受験も難易度の高いところにチャレンジが可能でした。
ですが、英語は大嫌いで特に会話はまるでダメ。言葉ができなくて怖いので英語をしゃべる国には絶対行きたくないと思っていたのです。この会社員時代も<グローバル化>を目標にする会社の方針とは裏腹に外国大嫌い人間、特に英会話が嫌なので海外旅行なんて誰が行くもんか、という超ドメスティック人間でした。
今思えば嘘みたいなのですが。

そんな生活が3年ほど続いていたのですが、ある日とうとうこの理不尽な上司と口論の結果、気のそぐわない異動の話を持ちかけられたのをきっかけに退職を切り出しました。この直前にバブルが崩壊していたのですが、その後会社は業績悪化で突如転落の道をまっしぐらに落ちていったのでした・・・。

それで私が辞めた時点ではついに所属部署が閉鎖、全社員対象に希望退職募集が始まるかとみんなハラハラしていたぐらいなので面倒な業務引き継ぎも無し。引き止められもしませんでした。

自主退職。本格的に肩たたきが始まるまで居たほうが手当がもらえるかもしれないので賢かったと言われるかもしれませんが、目的がありました。

スペインに行こう。これで長期滞在ができる!

スペインでの無職な4年間+非正規生活

辞めて自由になった後かねてから希望していたスペインでの長期滞在を実行しました!
「勉強していても使う機会が無いなんて意味ないじゃん」
とずーっと考えていたんです。

志がかなって初めは国際友好ボランティア研修生としてバルセロナへ派遣され無給日本語教師を約9ヶ月の間やった後、語学留学生として約3年間滞在したのですが現地は慢性不況でこれといって特技もなく、まして労働許可の無い外人には就職が無く、資金が尽き果て日本に帰国、大敗退でした。 行く前に労働許可というものを甘く見ていた『世間知らず』でした。

仕事のチャンスの多い東京に戻りましたが折しも世紀末大不況と年齢ハンデのために正社員の職が見つからず派遣で日銭を稼ぐはめになり、スペイン語どころか外国とは無関係な仕事ばかりを生活のため手当たり次第に請け負う生活が続き、いろんな派遣イジメにも遭いました。来月からの契約切れを突然知らされて唖然としたこともあります。まさしく貧民派遣社員でした・・・。

何故かフランスへ、そしてパリでの生活と転居・・・。

そんな生活が続く中、ヨーロッパが恋しくなり、ある夏フランスに貧乏旅行したのですがその時現在のダンナと知り合い、日本を離れて今度はフランスに移住しちゃいました。

初めてのフランス生活でしたがフランス語は実はスペイン語が中級ぐらいになった時から少しずつ学習していました。日本に戻った派遣社員時代は余計なお金は使えなかったのでNHKのお世話になるだけの独習でしたが、同じラテン語系のスペイン語の応用で行けるという面もありますので結構進捗早かったです。ちなみにダンナは仏語しか話せないモノリンガルですので仏語頑張るしかなかったです・・・・。

それでフランス語ゼロという状態ではなかったのですが、グレードアップしようにも結構なお金がかかる語学学校には行けないし、かと言って家でのんびりしているわけにもいきません。最低限自分のお小遣い+αとする収入と年金や医療補償のある社会保険加入(=自分の社会保険番号ゲットということです。これ、後々大事です!)の権利を得るために、『労働可能』と明記された滞在許可証が正式に手に入った段階で正社員(CDIでの被雇用者)を目指して主に日系企業をターゲットに就職活動を始めました。ちなみにフランスでは派遣会社は外国人の社会保険番号取得の申請ができませんので社会保険番号が無い状態では日本でやっていたような『派遣のお仕事』は不可能でした。

日系(または日本人を求めている会社)に絞ったのは 『フランス語があまりできないフランスの学歴無し外国人』という仕事探しでの重いハンデによって普通の仏企業には相手にされないと考えたからですが、日系情報誌には結構いろいろな求人が出ていたので3.4ヶ月の間履歴書を送りまくりました。

さて、それで20年前の失業時代と同じく冬が過ぎ春になる頃に、とあるパリの日系企業に採用され、ついでに勤めている会社が閉鎖する話に汲々していたダンナもうまく首都圏に転職できたので夫婦でパリに転居したのでした。
若くもない、フランスに留学経験も無く居住経験も浅い地方在住者に職をくれた当時の上司には今でも本当に感謝しています。しかし、TGV(フランスの新幹線)で面接に来るような遠方からの応募者はおそらく前代未聞だったでしょうね。

勤務先の社内環境はほぼ『東京の会社』、数年後の組織体制の改造で遭遇したお局や無能上司(これらはどこにでも居ますよね)などとの軋轢は日本の会社の日常と同じでしたがサラリーのレベルは現地基準、給料的にはまるで派遣社員を長期に渡って続けているような状態、唯一の慰めはタダで眺められる職場近くのパリの一等地の風景でした。

パリに居るから素敵なレストランやブティックに通ったりや文化的にハイソな暮らしというわけでも無かったのですが、そうやってパリの有名どころを徘徊しながら感じたことはやはりパリはフォトジェニックな街だということです(実際は地面とか見るとゴミだらけなんですが)。人間的には在住日本人一般を含めてそれほど好きになることもないところでしたが、この街の歴史を感じさせるモニュメント類はやはり壮麗でした。街中で撮った写真はこのブログ内でも時々使っています。腐ってもパリ、でした。

市内に住むのは予算的に無理なので郊外のアパートを借りて住んでいました。3度引っ越したのですが最後に住んだ街は住心地良くて10年以上もいました。今でもその街が懐かしいです。

今、フランスの田舎都市にて

そしておよそ13年半のパリ会社員生活の後、ダンナの定年退職を機に会社員生活にはサヨナラを告げて南仏の最果てのこの田舎都市に移住、この地は大気汚染が少なく雨の少ない気候とパリに比べて格段に良い食材の質を除くとあまりいいことはないのですが、これは仕方無いですねえ・・・。